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「ojukendadさん」が私のブログを紹介してくださいました。
我が家がうんと助走をつけてジャンプしても、絶対に届かない学校にお嬢様を通わせていらっしゃるのに、私なんかのブログを読んでくださっていて恐縮です。
「ojukendadさん」は小学校受験における家庭学習の取り組み方をたくさん書いていらっしゃいます。私は娘に対して同じように出来なかったと、読んでは反省しています。
もし娘たちが双子ではなく、小学校受験を二度する機会があれば、私は二回目は怒らずにできるでしょうか?一回目の反省を踏まえてより効率的に準備できるでしょうか?
結局はたくさん怒りながら、ぐちゃぐちゃになって準備をするのだと思います。
「ojukendadさん」は二回目の小学校受験に挑戦中です。応援しています。
「我が家はもう小学校受験はしません」
我が家はもう小学校受験はしません。
ジャックの教材や教具など「下の子がいればもう一度使えたのに」と思いながら捨てたものがたくさんあります。ペーパーの教材はコピーして使えるので、2人で1つを共有していました。ですが、教具に関してはどれも2個ずつありました。「ゴム掛け」も2個、「賢人パズル」も2個…etc。
我々夫婦が文系なので「図形に強くなる」と勧められたパズルやブロックなどの教具は、割とポンポン買いました。「小学校に入ってからも遊ぶかもしれない」と期待したまま数年保管していましたが、当然娘たちは一度も遊びませんでした。
物を捨てることは思い出を捨てることのような気がします。だから嫌な思い出の物はとっとと捨てられるし、良い思い出の物はなかなか捨てられません。
しかし、物を捨てたからといって思い出は消えません。その思い出は心の違う場所に、圧縮された状態で整理されるのだと思います。
先日娘の本棚から絵本を捨てて、新しい本が入れられるようになりました。納戸の教具や教材を捨てればまた違う物をしまえます。
物を捨てると、物理的な新しい空間ができます。
心も同じように思います。思い出も整理しないと、新しい思い出がどんどん入って来るのです。古くなった思い出は整理しないままでいると、心が重くなっていくような気がします。
「チャイルドシートを捨てました」
「bikke」のチャイルドシートを捨てました。娘たちはとっくにママチャリの子ども乗せには乗りませんが、カゴの代わりだと考えて何年もつけたままになっていました。
子ども乗せを2つとも降ろしたママチャリはとても軽く感じました。子ども乗せが重かったのかと思いましたが、持ってみたら大して重くはありませんでした。娘たちを乗せて走った思い出や、娘たちを乗せて行った場所の思い出などの、親の思いが重たかったのですね。
特に子どもが小さい頃の思い出は、我々親にとって捨てたくない物の最上位にある思い出です。一番夢と希望に溢れていたからです。
小学校受験で使った教材や娘たち2人を乗せたチャイルドシートを捨ててみると、気持ちがどんどん軽くなっていきます。
思い出が詰まった物を
「いつかまた使うかもしれない」
と、とっておいても、子どもはどんな風に成長して何に興味を持つか分かりません。
最近習字をやめました。
字が綺麗になってほしくて小学生になってすぐに始めました。家の近所で習っていたので、平日の夕方に通っていました。
しかし、最近は学校からの帰りも遅くなり、宿題も増えたためゆとりがなくなっていました。
やめてみると、平日のゆとりができました。
親が習い事や学校を選ぶ時は、何年も先の未来を想像して、「こうなって欲しい」という希望のもとで選びます。
娘たちは水泳とピアノを習っています。水泳は妻がどうしても習わせたくて0歳から通っていて、ピアノは受験が終わってから始めました。
始める時は大きな大会の立派な競技場で娘がぶっちぎりの速さで泳ぐ姿や、学校の音楽祭で伴奏をする姿を、そんなことはないと分かっていながらも想像していました。
「子どもの将来は親の夢」
子どもの将来は親の夢です。みんな我が子が輝く姿を見たくて、何をやれば一番輝けるのかを探しているのだと思います。
小学校受験や中学校受験も同じです。憧れの学校の制服を着た我が子が見たいのです。その学校に行けば我が子が一番輝けるに違いないと思っています。
ですがスイミングスクールには娘たちより小さいのにずっと速く泳げる子もいます。学校には娘たちよりずっとピアノが上手な子が何人もいます。
親である私たちも娘が一番になれないことは分かりますし、娘たち自身も分かっています。
娘たちの学校にはフィギュアスケートを習っている子もいるし、ヴァイオリンを習ってオーケストラに参加している子もいます。大会のために学校を休むこともあるし、大会の様子をGoogleClassroomに投稿したり、コンサートの案内を学校で配ったりもしています。
娘たちはそれが羨ましく、自分も輝いている姿をお友達に見てもらいたいと思っています。そんな中で最近娘たちが出会ったのが陸上です。
走ることに自信を持っている娘たちは、それなら学校で一番になれるという夢と希望を持っています。
私も親バカながら、運動会でごぼう抜きを演じる娘の姿を想像して夢見ています。
走ることは私も好きなので、毎晩娘たちと一緒に走る練習をしています。娘が陸上を始めて一番胸がときめいているのは実は私です。
今は娘たちは陸上をやる気満々です。習字をやめたかわりに、日曜日に陸上の塾にも通いだしました。小学校受験をして、心にゆとりがあるから新しいことも始められます。
しかしそれが数年後にどうなっているか分かりません。
もし陸上を辞めても他の物を選べるようにしておくことも大事だと思っています。
子どもは子どもの社会で生きていて、どのようになるかなんて予想できません。
子どもの変化に合わせて、親の心も変えていかなければなりません。私も今は娘と一緒に走って幸せを感じていますが、もし私がそれに拘り続けたらいつか娘を縛ってしまうかもしれません。
習字をやめられたのは、私たち夫婦の中で優先順位が下がっていたからです。優先順位が低くなっていたことにやめてから気づきました。
「心の隙間を埋める」
習い事を続けているうちは、どうしても続けたいと考えます。子どもの習い事は親の夢を叶える道であり、親の心の隙間を埋めるものだからです。
中学生の頃に嫌いだったあいつや、自分を馬鹿にしたあいつを見返したいのだと妻はよく話します。
「ほら、うちの子はスタイルが良いでしょ?」
「ほら、うちの子は走るのが速いでしょ?」
「ほら、うちの子は素敵な制服を着てるでしょ?」
と言いたい相手が心の中にいるのです。妻にとって娘の受験も娘の習い事も、惨めな思いをしていた中学時代にできた心の隙間を埋めるためのものです。
親が子どもの受験に必死になって取り組むのは、受験に取り組むことで親の心の隙間を埋めているように思います。
私もそうです。小学校受験への取り組みが、私の心の隙間を埋めてくれていました。小学校受験が終わって、また心を埋めるものが欲しくなりました。
私は中学や高校で羨ましく思っていた運動部の同級生よりも、引き締まった肉体でいたいのです。その同級生の子どもよりも、娘には運動ができてほしいのです。
「ほら、俺は腹筋割れてるぞ。どうせお前はデブだろ」
「ほら、俺の娘は足が速くてかっこいいだろ」
と言いたいのです。
だから速く走る娘の姿を夢見て、自分も走って鍛え直すことに、私自身が夢中になっています。
「双子の利点で切磋琢磨して、すごく速くなるんじゃないか」
「高校生になっても、時々は一緒に走ってくれるかな」
などと想像しています。
本当は、娘たちが一番になんてなれないことも分かっています。一緒に走ってくれるのは今のうちだけだということも分かっています。それでも夢見ている間は心の隙間は埋まっています。だから夢を見ていたいのです。
自分の心に隙間があることも、ゆとりがないと気付けません。小学校受験に取り組むことが私の心の隙間を埋めていたのだということは、終わってから気づいたことです。
親が心の隙間を埋めないまま、隙間があることにも気づかずに日々を送ってしまうのは危険なことです。放置された隙間はいつか大きくなって壊れてしまいます。
親が自分の心の隙間に気付けなかったら、なぜ子どもの心の隙間に気付けるでしょうか。
古くなったものは整理して、新しい物を受け入れられる体制を常に準備しておくことが子育てには必要なのかもしれません。
『受験後の子育て。絵本を捨てて気づいたこと』
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