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先日、断捨離アドバイザーの「中村レイコ」さんのブログを読みました。
大事にしていた「いないいないばあ」を捨てるという話です。
我が家にも「小学校受験の遺物」がたくさんあります。山のようなペーパー、絵本、教具……。
ジャックの領域別問題集は書き込んでいなかったためメルカリで売りました。コピーしたペーパーの山は裏紙として使っていますが、未だに使いきれません。
「子ども部屋の絵本を捨てました」
子ども部屋の絵本を捨てました。
全ての絵本にそれぞれ思い出があります。
だから、いざ捨てようとすると
「この本は良い本だから、とっておいたほうが良いのではないか」
といちいち思います。
自分で選んだ本ですからどれも「良い本」に決まっています。
「これは良い本だから」
「これは思い出があるから」
と言っていたら、一冊も捨てられません。
中村レイコさんが
「とってある絵本は誰のためなの?」
と書いていらっしゃいました。
私も、当然娘たちのためだと思っていました。
娘たちの幼い頃の思い出として、残しておいたほうが良いと思い込んでいました。きっと大人になった娘は、幼児期を思い出して喜ぶに違いないと思っていました。
でも本当は、娘のためではなく私自身のためにとってあったのです。
「ああ、この本はお父さんが何回も読んでくれたな。楽しかったな」
と思い出してほしかったのです。
夫婦で小学校受験を頑張って、読み聞かせをたくさんした思い出は、私の子育ての絶頂期の思い出です。いつか子どもとその思い出を共有したいと希望を持っていました。
子ども部屋の本棚には、もちろん「いないいないばあ」もあります。ですが小学生の娘は「いないいないばあ」も「おふろでちゃぷちゃぷ」も「はらぺこあおむし」も、もう読みません。
「あさえとちいさないもうと」や「こんとあき」や「おやすみなさいフランシス」を娘が自分で読んだときに、親の声で聞くのとはまた違った感想を持つのではないかと期待していました。絵本の主人公に共感することで、心が育つことを願っていました。
しかし、娘たちが「あさえ」や「あき」や「フランシス」に共感する年齢はとっくに過ぎてしまいました。
成長期の子どもは下の年齢の子になんて興味はありません。いつでも自分より上を見ています。子どもには未来しかありません。昔を振り返るのは大人だけです。
「子どもの絵本は親の本」
だから絵本は子どもが読むための物ではなく、親が読んで聴かせるものなのですね。
作者が表現したい心に共感するのは大人のほうなのです。幼い主人公の心を、大人が親の目線で読んで共感するのが絵本です。
子どもが自分で本を読んで、文章を理解できるようになるのは小学生になってからです。その時にはもう、絵本の主人公は等身大ではなくなっています。
私は今でも娘が寝る前に時々本を読み聞かせしています。ですが、それはもう絵本ではありません。「銭天堂」だったり「はれときどきぶた」だったりするのです。
次に娘たちが絵本を手にするのは、自分が親になってからなのでしょう。親の目線で絵本の物語に共感し、子どもに読んで聞かせるときです。
その時に手にしたいのは、自分が子どもの頃に読んでいた古びた「こんとあき」ではないはずです。我が子のために新しく買った、綺麗な「こんとあき」のはずです。
もし私の親が
「君が好きだった本だよ。〇〇に読んであげてね」
と言って、古くなった「パパお月様とって」を送ってきたとしたら、私は喜んだでしょうか?
私は、妻と2人で本屋に行って、子どもの頃を思い出して、その思い出の中から娘たちに読んであげる本を探すのが楽しかったのです。
娘たちも同じはずです。旦那さんと2人で、自分たちの子どものために本を選びたいはずです。
これまで娘の部屋にある絵本は「娘の本」だとばかり考えていました。しかし娘の部屋にある絵本は「私の本」だったのだと気づきました。
私の絵本は、何度も繰り返し読み聞かせました。私の絵本の役目は終わりました。
紐で束ねられた私の絵本を見たら、私も妻も、小学校受験をした思い出にしがみついていたことに気づきました。
娘たちはどんどん成長して変わっていきます。
ですが親はもうそんなに変わりません。
だから私は娘たちに子どものままでいてほしいのです。いつまでも可愛いままでいてほしいのです。
大人にとって5年前はつい最近です。ですが子どもにとって5年前は昔々です。
捨てることは前に進むことです。ほとんどの絵本を捨てたら、本棚の大半が空きました。娘の本棚は、もう役目を終えた「私の本」で埋まっていました。
空いたところにはこれから娘たちが自分で「娘の本」を入れていくのです。
本棚に新しい娘の本を埋めていくように、私たちの子育ても、新しいことで埋めていかなければならないことに気がつきました。
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