本当の自分?受験生の親の顔

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 先日妻が仕事で使った文章に「本当の自分」について考えるという趣旨のものがありました。

 高校1年生の教科書に載っている平野啓一郎氏の『「本当の自分」の幻想』という文章です。「自分」の姿とは確固とした1つの「本当の自分」があるのではなく、コミュニティ毎に相手との相互作用で生じる様々な顔があって、それら全てが「本当の自分」だと書かれていました。

「自分探し」

「自分探し」「本当の私を分かってくれない」ちょうど私が20代の頃に流行っていました。バイト先の女子高生なんかが「店長は私のことを分かってくれない」と言っていたのをよく耳にしました。

 「本当の自分」と聞くと、個性を尊重する言葉のように感じます。しかし、人間は他人との関わりの中で生きています。確かに自分の顔というものは、自分が身を置く場所それぞれにあるものです。一人の人間がその場所に応じて違う一面を見せていたとしても、その全てが「本当の自分」です。周りに影響されない確固とした「本当の自分」像が存在しているわけではないはずです。

 ある場所ではいつも明るく振る舞い、ある場所では無口な人にとって「本当の自分」はどちらなのでしょうか?恐らくどちらも「本当の自分」の姿なのだと思います。

 私はこの文章を読んで目からウロコでした。

 特に日本人はコミュニティの中でなるべく揉め事を起こさずに当たり障りなく日常を送ることを好む傾向があるため、色んな顔を持っていたほうが穏やかに過ごせるはずです。

 もし確固とした「自分像」があって、どこにいてもその顔を貫こうとしたらかえって疲弊してしまうような気がします。

 娘たちを見ていると、親に向ける顔と姉妹だけでいるときの顔は違います。祖父母といるときも違うし、私といる時と妻といる時でも違います。小学校の保護者面談で娘の話を聞くと、毎回違う一面が見えて驚きます。

 当然私も、妻といる時、娘といる時、仕事をしている時、全て違う顔をしているはずです。ではどれが「本当の自分」の顔かと聞かれたら分かりません。どれも本当の私です。

 人間が、ある1つの顔を維持するためには体力を使います。様々な顔をそれぞれ短時間で使い分けている方が楽です。

 私は前回このブログで、学校生活をより良いものにするためには「苦手」を作らないことが必要で、そのために習い事をさせていると書きました。

 平野氏の文章を読んだことで、習い事をさせることは子どもたちにより多くの顔を作る場所を与えることだと気が付きました。人はより多くの顔を持っている方が心が軽くなるのではないでしょうか。

「本当の私を分かってくれない」という言葉の意味は「私を認めて欲しい」です。

 人間には承認欲求があります。認めてもらっていないという意識を言語化すると「私を分かってくれない」となるのだと思います。

 本来「本当の自分」なんて本人にも分からないものです。ある場所で認められることによって、その場所での自分が「本当の自分」の1つになります。

「昨今の不登校」

 昨今不登校の子どもが増えていることが話題になっていますが、学校での過ごしやすさも、どれだけ違う顔を持っているかで決まるのでしょう。

 もし1つの顔しか持っていなかったら、それがあるコミュニティの中で親和性がないと「居心地の悪い場所」になってしまいます。

 勉強が得意という顔しかなかったとしたら、勉強で上位にいられる場所でしか自分の位置を築くことができません。受験をして進学した学校には自分と同等の偏差値を持っていた子たちが集まって来るのです。その中で「勉強が得意」という顔を維持することは容易ではありません。スポーツが得意、絵が上手いなどの勉強以外の顔を持っていれば居心地の悪さを感じることなく過ごせるかもしれません。

 中学受験のために3年生で習い事を全部やめて塾に集中するご家庭も多いかと思いますが、極端な受験への偏りはその後の学校生活での顔を減らすことになってしまうのではないでしょうか?

 娘たちが通っている陸上の塾を主催されている長澤宗太郎氏が著書「足の速い子の育て方」の中で「子どものうちは1つの競技に絞らず、複数のスポーツを経験させたほうが良い」と書いていらっしゃいます。1つに絞ってしまったら可能性も狭め、逃げ道がなくなるからです。

 予め逃げ道を作っておくことは、消極的な姿勢に感じるかもしれません。しかし、なるべく多くの事を経験させていることは、それだけ多くの顔を作ることです。

 子どもにとって「好きなこと=得意なこと」です。苦手だけど楽しいということはあり得ません。苦手な場所では居心地悪く感じるはずです。

 昨今中学受験の過熱によって、子どもに合った学校を探すように書いている記事が多くなりました。私もそう考えています。しかし一方で、子どもにとって合う学校を入学する前に見つけるなんて不可能だとも考えています。

 今回平野氏の文章を読んだことで、私の中で矛盾していたその問いに答えが出せました。本来子どもは順応性が高いため、居心地が悪くない限りその学校に相応しい顔を作ることができます。居心地が悪いということは、そのコミュニティの中で承認される顔を持っていないからです。だから「この場所にいる自分は本当の自分ではない」という考えに陥ります。

 その学校の中で承認される可能性のある複数の顔を予め持っておくことが必要なことなのではないでしょうか?

「中学受験生に求められる顔」

 受験を眼の前にすると、親は「志望校合格に向けて努力している顔」だけを求めてしまいます。子どもも勉強して成績が上がれば親から褒められるため「勉強している自分こそが本当の自分」だと錯覚します。行き過ぎると勉強しかなくなってしまいます。

 今は勉強に集中していても、中学に入ってからは自由にのびのびと過ごせると思い込んでしまいます。

 ところが、進学した学校には自分と同じ勉強ばかりの子が集まっていると思いきや、スポーツが得意な子もいればピアノが上手な子もいます。学校には体育の授業があり、美術や音楽の授業があります。体育祭や文化祭があります。部活動もあります。勉強しか行き場のなかった子が、その学校の中で良い位置を築くことは難しいことです。

 勉強しか得意がないのなら、勉強で絶対的に優位に立てるような学校に行けば良いのですが、大概のご家庭は背伸びをして少しでも偏差値の高い学校を目指します。

 実は入学後にそこで楽しく過ごせるかどうかは、入学前の段階でほとんど決まっているのです。入学する前にどれだけ多くの顔を持てているかどうかです。

 そしてその顔を作ってあげるのは親の努めです。

「複数の顔を持ちたい」

 本来人間は複数の顔を持ちたいと思っているのでしょう。子どもの受験にお母さんがのめり込むのは、「母」でしかなくなった自分が「受験生の母」という新しい顔を持てるからではないでしょうか?

 今、東京で子育てをしている多くのご家庭が小学校受験か中学受験を一度は考えるでしょう。実際に受験をしなくても、検討する割合は100%に近いのではないでしょうか?

 子どもの受験の費用をどうやって捻出するのかが、多くの庶民家庭の悩みのタネになっているだろうと思います。富裕層でなければ子どもの受験費用は家計の収支の中で大きな割合を占めているでしょう。エンゲル係数ならぬ「受験係数」が高いご家庭が多いのではないでしょうか?我が家もそうでしたし、現在も「教育費係数」が1番高いです。

 そうなると、家庭は子どもの受験に関わることを中心に回るようになります。昔は趣味やレジャーに使っていた分が塾代に回ります。実は受験によって顔の数が減っているのは子どもだけではありません。親も同じです。

 かつては、「仕事の顔」があって「家庭の顔」があって「趣味の顔」などもあったでしょう。今は家庭でも職場でも「受験生の親」の顔しか持てない人が増えているのではないでしょうか?「趣味の顔」は当然持てません。

 私も娘が小学校受験の当時は職場でも、幼稚園でも、家でも、「小学校受験の親の顔」しかありませんでした。今は「職場の顔」「夫の顔」「父親の顔」「習い事の親の顔」「私立小学校の親の顔」と複数の顔が持てています。

 子育て中は誰もが無我夢中だと思います。落ち着いて一息ついた時に「本当の自分」とは何かを考えたら、自分には「親としての顔」しかないと気づくと愕然とするかもしれません。

 だから中学受験にのめり込むお父さんお母さんが多いのでしょう。「中学受験の親の顔」は新しい顔になるからです。中学受験の親の顔が、早慶の親の顔、御三家の親の顔に変わることを誰もが一度は夢見るはずです。私も妻も「第一志望校の親の顔」を持つことを夢見ていました。

 憧れの学校の親の顔になれないことに気づいた時に、それでも受験を続けるのかどうかが悩むところなのでしょう。

 受験生の親の顔をやり通すためには、それまで自分が築いてきた「職場の顔」「友達との顔」「行きつけの飲み屋での顔」を捨てるか、変えるかしなければならなくなります。

 仕事を辞めるわけにはいかないので「職場の顔」は継続するように思われがちですが、元々あった職場の顔は「残業OK、休日出勤OK、飲み会OKの顔」だったはずです。受験生の親の顔を持つと、それは捨てなければなりません。

 多くの場合、ほんの数年の辛抱でまた元の顔に戻り「子どもを良い学校に入れた親の顔」という新しい顔を手にできると考えるはずです。しかし、それが叶う人はほんのわずかしかいません。

 何年間も放置した友達の元や行きつけの飲み屋にまた戻ることができるでしょうか?

 大人も持っている顔の数が少ないと、心が追い詰められていきます。受験生の親の顔しか持っていないことは辛いことです。

 私は小学校受験で「受験生の親の顔」を卒業できたため、複数の顔を取り戻すことができました。これから先新しいことにチャレンジして「新しい顔」を作ることもできるのです。

 私は小学校受験に取り組んでいる間、受験生の親の顔で娘に本を読み、歌を歌い、体操対策で一緒に走りました。

 受験が終わった今でも娘に本を読むし、一緒に歌います。娘が陸上を始めたので、私も新しい趣味として一緒に走っています。ですが、もう受験生の親の顔ではありません。

 妻も元々持っていた「マイナーなバンドを追っかける顔」「アングラな芝居を観る顔」などの趣味の顔を捨てて小学校受験に取り組みました。最近になってまた、当時聴いていたバンドのCDを楽しそうに聴いています。そのときの顔は受験生の親の顔ではなくなっています。

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